VWカルマンギア
1931年にドイツのシュツットガルトに自動車設計事務所を設立するフェルディナント・ポルシェは、1875年9月3日、チェコスロバキア領にあたる北ボヘミア地方の小さな街マッヘルスドルフに、ブリキ職人として働くアントン・ポルシェの次男として誕生した。幼い頃から機械工学に興味を示し、家業を手伝いながら機械や電気に関する実験を独学で繰り返していた。19歳で入社したベラ・エッガー財団を始めとする複数の会社に籍を置いたフェルディナントは、後にエンジンや自動車の設計に優れた才能を発揮する。ウィーンの電気自動車会社「ヤーコプ・ローナー社」やオーストリア最大の自動車会社「アウストロ・ダイムラー社」、1923年には「ダイムラー社」に技術部長と取締役として就任した時は47歳だった。それから3年後の1926年に「ベンツ社」と合併し「ダイムラー・ベンツ社」が誕生するとフェルディナントは、同社を代表する高性能車「SS」や「SSK」の設計統括を行い、自動車レースでも成功をおさめた。一方で、長い間思い描いてきた「廉価な小型車」という理想的な自動車への夢を実現すべく56歳で自ら設計事務所を設立する。1933年にドイツの政権の座に就いたアドルフ・ヒトラーの後押しにより国民車「KdF-Wagen」(Kd FとはKraft durch Freudeの略=歓喜力行団=喜びをチカラに…という意味をもつナチスによる国民にレジャーを提供する組織)」の設計と試作を繰り返しながらフェルディナントは、ここで理想とする「廉価な小型車」を完成させる。第二次世界大戦後「KdF-Wagen」の生産工場の管理の為に派遣された英国軍少佐アイヴァン・ハーストにより「KdF」は「フォルクスワーゲン」として生まれ変わり、その所在地も「KdF」市から「ウォルフスブルク(狼の城の意味をもつ)」市に改名を受けた。1948年英国軍の管理下に置かれていたフォルクスワーゲンの責任者としてGMで自動車生産を学び、オペルの工場長も経験したハインリッヒ・ノルトホフが任命される。ノルトホフは、“ファシズムの遺産としてのフォルクスワーゲン”というネガティブな認識から、如何にフォルクスワーゲンが“素晴らしい商品”であるかという意識改革を全従業員に行い徹底した合理主義で大きく発展するきっかけを見出そうとしていた。戦前、国家組織でもあったフォルクスワーゲンは存亡の危機も抱えながらも連合国軍によりノルトホフ率いる組織としてドイツ政府に預けられた。フォルクスワーゲンはノルトホフの指揮の元で、かつての「KdF」をベースとする“ビートル”の愛称を英国圏で与えられた「タイプ1」を生産することにより快進撃を始める事となる。ドイツ北部に位置するオズナブリュックにあるカルマン社は、1901年8月1日にウィルヘルム・カルマン・シニアが15人の職人を有する馬車の製作会社を買収するところから始まる。創業者のウィルヘルムは、馬車では無く当時まだ珍しかった自動車のボディ制作に興味をもち、馬車の製造で培われた職人達の技術を使って翌年の1902年には自動車のボディの製作を試みる。カルマン社が成功するきっかけとなったのは、1949年にフォルクスワーゲン社から「ビートル」のスペシャリティモデル製作の依頼を受けたことによる。この頃のフォルクスワーゲンは、成功を収めつつあった“ビートル”の販売拡大を狙って、より高級なバリエーションモデルの生産を計画し、この仕事を請け負うコーチビルダーを求めていた。そこでフォルクスワーゲンは、カルマン社と、ビュルツラットにあるヘップミューラー社に着目する。フォルクスワーゲンはカルマン社には“ひとクラス上級なモデル”となる「タイプ15」を、そしてヘップミューラー社には“個人用高級車”としての「タイプ14」というスペシャリティモデルの製作をもちかけた。この提案に対しカルマン社は「ビートル・4シーター・カブリオレ」を製作し、ヘップミューラー社は2シーターの「ヘップミューラー・カブリオレ」を製作してみせた。生産が始まると程なくしてヘップミューラー社の工場は火災に見舞われてしまい「ヘップミューラー・カブリオレ」は1953年までに696台を生産するに留まる。カルマン社製の「ビートル・4シーター・カブリオレ」は、実用的で造りも良く1980年迄マーケットから支持を得る息の長いヒット作に成長する。カルマン社以外にもフォルクスワーゲンをベースにスペシャルモデルを作るコーチビルダーが存在したが、カルマン社はフォルクスワーゲンとの強いつながりをアドバンテージに、必要なコンポーネンツの供給を容易に受ける事が出来るという有利な立場を活かしていた。創始者であるウィルヘルム・カルマン・シニアが亡くなると、息子のウィルヘルム・カルマン・ジュニアが経営を引き継いぐことで、カルマン社は更なる飛躍を遂げることとなる。彼らが注目したのは、新たなる「ビートル」の購買層だった。カブリオレの製作で実績を挙げたカルマン社は「ビートル」ベースの、更なる上級なスペシャリティモデルの生産をフォルクスワーゲンに持ちかけてみた。社長のハインリッヒ・ノルトホフは北米市場の重要性を認識していたので、短命に終わってしまった2シーターの「ヘップミューラー・カブリオレ」の後継車の必要性を理解していた。カルマン社が提案したスポーティなスペシャリティモデルという路線はその核心をついたものとなった。こうして生産要請を正式に受けたウィルヘルム・カルマン・ジュニアは、この新型モデルのボディデザインを逡巡した挙句、友人のルイジ・セグレに相談する。当時トリノのカロッツェリア・ギアのオーナーでありチーフ・スタイリストでもあったルイジ・セグレが、最終的にこの新型モデルのデザインをまとめる事となる。“ビートル”のパワートレインの使用を想定する新型モデルは、フロントにグリルを持たないスムーズなラインをもつフロントフェイスの両端にヘッドライトに合わせて盛り上がりを与えられ、流れる様なルーフラインから降りてきたラインと、ドア後方からふくよかに膨らませたリアフェンダーから緩やかに下るラインがエンジンフード上で重なる流麗な2ドアクーペのスタイリングが完成する。ほぼ生産モデルに近いカタチで、1953年になるとトリノの街での実走行テストが始まり、1955年のフランクフルトショーでデビューを果たす新型モデルは「ヘップミューラー・カブリオレ」と同じ「タイプ14」という型式をもつ。生産を請け負うカルマン社とボディデザインを担当したギアの名称を合わせて「カルマンギア」と命名された新型モデルは、フォルクスワーゲンの上級パーソナルカーという位置付けと、同社のイメージリーダーとしての役割りをもつモデルとなる。鋼管バックボーンフレームとフロアパンによるシャーシ、エンジンを“ビートル”から流用し、そのエンジンはリアに搭載するRR方式が採用されている。フロアパンとエンジンルームはボディにあわせて拡張され、そこに様々な変更が加えられボディの生産のみならず車両の組み立てもカルマン社のオズナブリュック工場が担当する。ショーの話題を独占するほどのインパクトを与えた「カルマンギア」は、社長ノルトホフの狙い通り北米市場で一大ブレイクする。1958年にはその人気を更に煽る様にカブリオレモデルがデビューし「カルマンギア」の人気は揺るぎないものとなる。1960年に初めてのマイナーチェンジが敢行されると、ヘッドランプの位置が5cm引き上げられフロントマスクの2つのエアベントにクローム製のグリルを装備しフェンダーのデザインがよりシャープな形状に改められた。テールランプは小さな角型から三日月状のデザインに変更され、リアクウォーターウィンドウが固定式から開閉可能とされた。フロントノーズにはフォルクスワーゲンのエンブレムを配して、リアのエンジンフードにはカルマン社とカロッツェリア・ギアのエンブレム、そして右側のホイールアーチの後方にカルマン社とカロッツェリア・ギアの社章を組み合わせたバッチが装備されている。その後も、エンジン排気量の拡大や、安全基準の見直しに従いデザイン変更がもたらされるが、基本的には1955年にデビューした時のイメージから大きく変わることのないボディデザインを維持しながら1974年まで生産が続けられたモデルとなる。ハインリッヒ・ノルトホフは、フォルクスワーゲンを世界的な規模のメーカーへと発展させるとともに好評を得た「カルマンギア」の後継車として、ポルシェと共同開発による「914」をカルマン社で製造する計画を推進する。しかし志半ばで病に倒れたノルトホフは69歳でこの世を後にし、1968年にフォルクスワーゲンはマネージング・ディレクターだったカール・ロッツを社長とし新体制を迎える。ノルトホフが推進したフォルクスワーゲンの新たな方向性は修正を余儀なくされるが、同社が小型車に向けた高品質なクルマ造りの本質は揺るぎなく現代まで継続されたものとなる。「カルマンギア」の流麗なボディデザインを描いたルイジ・セグレは、43歳の若さで腎臓結石の摘出手術後の合併症によりこの世を去ることになる。しかし、カロッツェリア・ギアは優れた才能をもつ若きデザイナー、ジョルジェット・ジュジャーロを後任に迎えることで更なる発展を遂げていく。「カルマンギア」の製造によりその名を世に知らしめたカルマン社は、今世紀に入ってからも「ニュービートル・カブリオレ」や日産の「マイクラ」「インフィニティG37」のオープントップモデルのボディ架装を請け負い、その高いクラフトマンシップを維持していたが、2009年に経営破綻しフォルクスワーゲン傘下となる。フォルクスワーゲン、カロッツェリア・ギア、カルマン社の3社が、それぞれ重要な時期にコラボレーションして産み出された「カルマンギア」は、今も変わることなく多くのファンに支持され続けるモデルとなっている。︎今回入荷した1965年型「フォルクスワーゲン カルマンギア」に搭載されるエンジンは、空冷水平対向4気筒OHVで、ボア×ストローク77.0mm×64.0mmから1192ccの排気量を得る。初期モデルでは6.6だった圧縮比は、1961年型から7.0に引き上げられオートチョーク機構を備えるソレックス製28PICT型キャブレターを装備して、最高出力34馬力/3600rpmと最大トルク8.4kgm/2000rpmを発揮する。今回入荷した車両はツインキャブレター化によるカスタマイズが施され、各バンクに1基ずつのキャブレターを装備している。「カルマンギア」に搭載されるエンジンはこの後もマイナーチェンジを繰り返し1.3ℓ、1.5ℓと排気量アップを重ねながら1970年には1.6ℓまで拡大され、常にフォルクスワーゲンのイメージリーダーとしての役割を果たす存在となる。組み合わされるトランスミッションは4速マニュアルトランスミッションとなり、1961年型以降ローギアにもシンクロが採用されることでフルシンクロ化されたものが搭載されている。︎足回りはフロント・上下2段のトレーリングアーム式+トーションバースプリング+スタビライザー、リア・スウィングアーム式+トーションバースプリングとなる。ブレーキはフロント・リアともにドラム式ブレーキを装備する。ホイールは前後ともに4J×15インチのスチール製を装備し、5.60-15サイズのタイヤと組み合わされる。今回入荷した車両にはアメリカのホイールメーカーのEMPI製15インチ・アルミホイールが装備され、ヨコハマ製165/65R15サイズのタイヤが組み合わされている。︎インテリアは、同年代のスポーツモデル「ポルシェ356」にも通じる雰囲気が感じられるものとなり、ボディと同色のシンプルなダッシュボードと黒をベースとする内装カラーとの鮮やかなコンビネーションを見せている。細身の白い大径ステアリングの中央にはフォルクスワーゲンの本拠地ウォルフスブルクの紋章が備わる。90マイルまでの大径のスピードメーターと小径の燃料計はVDO製のオリジナルが装備される。シリーズを通してレブカウンターは装着されない「カルマンギア」なので、本来は大径の時計がおさまるスペースにオートゲージ製の8000rpmまで刻まれた回転計が装備されている。ヘッドレストの付かないローバックシートにはボディと同じカラーのパイピングが施され、シフトノブやサイドブレーキのブーツ類も同色のものにカスタマイズされている。このシートは本来「ビートル」用のものとなるが、脚部をカットする事で低く装備されスポーティなドライビングポジションを実現している。リアにもシートを装備するが、あくまでも+2シート用なのでスペースも限られたものとなっている。︎全長×全幅×全高は4140mm×1634mm×1330mm、ホイールベースは2400mm、トレッド前1305mm、後1288mm、車両重量830kgとなる。最小回転半径は5.5m、燃料タンク容量は40ℓ、新車時販売価格は「ビートル1200」の価格が63万3000円の時に「カルマンギア」は148万3000円(1971年末)となっている。1938年に登場した“ビートル”は、ドイツでは1978年1月19日迄、ブラジルでは1996年迄、そしてメキシコでは2003年7月30日まで生産され累計2152万9464台が生産され、これに対して「カルマンギア」はクーペモデルが36万3401台、カブリオレが8万899台の生産がされている。︎1.2ℓエンジン搭載の「カルマンギア」のメーカー公表性能値は、0→50mph加速18秒、最高速度122km/hとなっている。︎「フォルクスワーゲン カルマンギア」は緩やかにラウンドしたボディとリアフェンダーへと続くキャラクターラインが1950年代の香りを漂わせる佇まいをもつ。ボンネットはじめ、ドア、エンジンフードのチリはピタリと一定に保たれ、良質な鉄板で質感高く丁寧に造られているボディは、それを作り上げる職人達の存在を感じさせるものとなっている。実用性を重視したベースモデルの“ビートル”に対しフォルクスワーゲン製としては異例の華やかさをもつ「カルマンギア」はクローム装飾で彩られた車両が主流となる時期の北米市場で、その人気を確実なものとした。低い位置にあるドアハンドルを引いて、ドライバーズシートに腰を下ろすと、目の前には鮮やかな色調のダッシュボードが広がる。細身の白い大径ステアリングを抱え込むようにドライビングポジションを調整し、エンジンを始動してみると、空冷の聞き覚えのあるメカニカルなサウンドが柔らかく響く。神経質なエンジンではないのでゆっくりと走り出してみると、その足回りはしなやかに動きフラットな姿勢を維持しようとしているのが感じられる。ステアリングフィールはしっかりとしていて、ある程度スピードを出しても充分に信頼出来るものとなる。4輪ドラム式のブレーキも軽い車重とエンジンパワーに充分な制動力を発揮し気を使わされるものとはならない。コンパクトなボディの割には小回りは効かないが、走行中ショーウィンドウに映るボディを目にすると、一瞬、ハッとさせられる美しさを感じる瞬間に出逢える。後世に語られる多くのモデルを設計したフェルディナント・ポルシェの「理想の小型車」を現実のものとした“ビートル”をベースに、フォルクスワーゲン社長ハインリッヒ・ノルトホフとコーチビルダーのエリッヒ・ヘップミューラー、ドイツ全土に大規模なVW販売店網を展開していたゴットフリート・シュルツの3名が顔を合わせて企画された「ヘップミューラー・カブリオレ」。その特徴的なリアスタイルとスペシャルモデルとしての成り立ちとスッキリとウェストライン内に幌を収納するスマートなボディは、同じ“ビートル”であっても全く異なるアピアランスを見せていた。経済復興を遂げつつあったドイツに於いて、やっとの思いで“ビートル”を手にした人達にとっては「ヘップミューラー・カブリオレ」の存在はとても贅沢な価値あるものに映ったかもしれない。そのスマートなボディデザインの流れを引き継ぎ、乗る者の心を豊かにする存在の「カルマンギア」には「ヘップミューラー・カブリオレ」と同じ「タイプ14」の型式が与えられている。「カルマンギア」が発表された当時、フォルクスワーゲン社長のノルトホフは、製造コストを極限まで切り詰めて低価格の小型車を作り始めた多くの自動車製造メーカーのやり方とは全く異なる考えを持っていた。大衆車であっても品質を重視して手を抜くことなく、たいへんな思いをして購入してくれた顧客の期待を裏切らないクルマ作りの姿勢を企業方針としていた。その高い製造品質が「カルマンギア」にも活かされ、長い年月を経た現代に於いても、そこに注がれたクラフトマンシップは所有するオーナーの心を暖かく包む。クルマを降りてそこから見える前方に伸びるフェンダーのラインや、柔らかく弧を描くクォーターウィンドウには“ビートル”とのデザインのつながりを思わせるディテールが散りばめられている。「フォルクスワーゲン カルマンギア」は、フォルクスワーゲン、カロッツェリア・ギア、そしてカルマン社の3つのブランドが、流麗なシルエットの中でひとつの美しいコラボレーションを見せ豊かな表情を見せている。それは作り上げた人達のモノづくりにかけた強い思いの凝縮されたひとつの作品として時が経過しても、これからも多くの人に愛され続けていくこととなるだろう…




















