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シリーズ Ⅰ
600
万円
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メーカー
ミッション
マニュアル
グレード
シリーズ Ⅰ
ボディタイプ
外装色
オレンジ
年式
1965.0 年型
走行距離
不明
乗車定員
2.0 名
サイズ
長 378.0 cm 幅 150.0 cm 高 120.0 cm
エンジン形式
排気量
843.0 cc
馬力
49
トルク
6
車検
令和6年11月
ハンドル
駆動区分
後輪駆動
輸入区分
中古並行輸入
内装色
ブラック
燃料区分
ガソリン
幌色
ブラック

19世紀もあと少しで終わろうという1899711日、北イタリアの工業都市であるトリノ市内にあるエマヌエーレ・カケラーノ・ディ・ブリケラージョ伯爵の屋敷で、自動車会社設立に関する契約が交わされていた。発起人の9人は、いずれも地元の上流階級の面々だった。この頃、誕生したばかりの自動車は人々の羨望の的となり、彼らが新しい産業に魅せられたのも当然のことと言えるだろう。新会社の資本金は80万リラで、ファブリカーナ・イタリアーナ・アウトモビリ・トリノ(トリノ・イタリア自動車製作所)と命名され、その頭文字を綴ったFIAT(フィアット)と呼ばれるようになった。提唱者でもあるブリケラージョ伯爵は、社長の座を弁護士のロドビーコ・スカルフィオッティに譲り、自身は副社長となる。工場はブリケラージョ伯爵が資金援助していた、機械製作会社のチェイラーノ社の工場が充てられた。しかしこの9人の中でただ一人、考えの異なる人物がいた。当時、養蚕業を営んでいたジョバンニ・アニエッリである。1866813日生まれのアニエッリは、トリノ近郊のペローサという村で生まれた。農業経営者だった父・エドアルドを幼少期に亡くし、母の勧めで陸軍士官学校に進み、軍隊に入るが1899年に、結婚し長男と長女が生まれ退役。父の後をついで農場経営に乗り出すが養蚕業は下火となり、間もなく手を引こうというタイミングで、自動車会社設立の話を聞いた。知人と共同で、3輪自動車の開発まで行う程、自動車に対して興味を持っていたアニエッリは、当時のヨーロッパ自動車産業を席巻していたいたフランスのプジョーやパナールに対向する会社に発展させていきたいという野望を持っていた。これに対して他のメンバーは、自身で製作した自動車で盛んになってきた自動車レースに参加したいと思う程度で、その考えには大きな差があった。自動車の生産が始まると手狭になってきたチェイラーノ工場から、市内ダンテ通りに土地を見つけたアニエッリは、重役のひとりに過ぎない立場にも関わらずフィアットをコントロールする存在となっていった。その後、正式に代表取締役に就任したアニエッリは、次々にニューモデルを投入し、絶え間なくそれらの改良に努めたが、それだけに留まらず1903年にアメリカに輸出を開始し、その2年後にはオーストラリアに販売拠点を開設するなど、イタリア国内のみならず、世界に視野を広げていった。更に、船舶用エンジンやトラムの製作など、自動車以外の業種にも進出を遂げ、1914年、第一次世界大戦が勃発すると自動車、船舶、航空機に関わるフィアットに多大なる利益がもたらされた。1920年にジョバンニ・アニエッリは取締役から会長の座に就任、その翌年トリノ北部に153千平方メートルという、当時世界最大の敷地面積をもつリンゴット工場が完成し、稼働を開始する。5階建ての屋上にテストコースをもち、フォードの工場に倣ったオートメーション設備を完備した最先端の工場だった。1929年、ニューヨーク・ウォール街に端を発する、世界大恐慌によりヨーロッパは打撃を受けるが、イタリアではファシスト党のムッソリーニによる自国の産業の保護と、国内市場の活性化という名目の元、関税引き上げやガソリン税引き下げ政策によりフィアットは生産台数を半減させる程度で乗り越えた。1935年アニエッリは、自身の後継者として育ててきた長男エドアルドを飛行機事故で亡くしてしまう。失意の中、アニエッリは5000リラで販売可能な経済的なモデル開発を計画し、後にフィアットの名設計者となるダンテ・ジアコーザにより「トポリーノ」の愛称で呼ばれる小型車の「500」が誕生する。1935年になると広大な敷地面積100万平方メートルをもつミラフィオーリ工場が稼働を始める。5つのフロアでひとつの生産ラインが成り立っていたリンゴット工場に対し、ミラフィオーリ工場では1フロアで生産ラインが成立することにより、更なる効率アップが図られていた。しかし第二次世界大戦が始まると他国に対して戦闘力が劣るイタリアは各地で敗戦を続け、ミラフィオーリ工場も大部分が失われてしまう。ムッソリーリ失脚後、新しいイタリア政府は連合国と休戦協定を結ぶが、トリノを含む北部地区はドイツ軍の占領下となり、ナチスとムッソリーリによる独自政府が樹立し、イタリアは南北分裂に陥る。この頃、アニエッリは静かに経営から離れると、重役だったアニエッリの腹心ヴィットリオ・ヴァレッタがドイツ軍、連合国軍の間で難しい役回りを演じ終戦をむかえる。終戦の年の1216日アニエッリは79歳で自宅で息を引き取った。正式にヴァレッタが社長に就任すると、フィアットは10年前の10分の1まで落ち込んだ生産台数を回復させるべく、魅力的な小型車開発に積極的に取り組んだ。「トポリーノ」開発で名をあげたジアコーザは「トポリーノ」と同じ外寸で4人乗りを実現する画期的な新時代の小型車として、リア・エンジンの「600」を1955年に発表した。1957年になると、更に「600」の設計思想を基本に、もう一回り小さなボディとフィアット初の空冷エンジンを搭載した「ヌォーバ500(500)」が開発された。22.2km/という脅威の低燃費と「600」より10万リラ安価な46.5万リラという新車価格により「ヌォーバ500」は、イタリア人にとって初めての大衆車として多くの人に迎えられ、イタリア中がこの車で埋め尽くされた。驚異的な成長を続けるイタリア経済の中で60年代を迎えると「600」の後継車としてリア・エンジンを継承した「850」が19645月に発表される。「850」のボディの特徴はリアに小さなノッチが付けられたボディと「600」より一回り大きな室内スペースをもつモデルとなっている事。乗用車の年間生産台数が100万代を超えた1965年、この「850」に「クーペ」と「スパイダー」というボディ・バリエーションが加わり、そのボディは「クーペ」が社内デザイン、「スパイダー」はカロッツェリア・ベルトーネに任され、製造もベルトーネが担当していた。 1960年代は、ファッション、音楽、暮らしに新たな風がもたらされた時代となる。その新風は自動車の世界にも運び込まれ、多くのカロッツェリアやデザイナーがクルマづくりに参加した事で、革新的で魅力的なモデルが多く誕生する。「フィアット850スパイダー」も、そんな60年代を象徴するフィアットとベルトーネのコラボレーションの元に誕生したモデルとなる。アルファロメオ の「アルファスッド」のプロジェクトを主導したエンジニア、ルドルフ・ルスカは当時、フィアットのコンサルタントだった。このルスカからベルトーネのヌッチョ・ベルトーネの元に「フィアット850」のシャーシを使った小型スパイダー製作のコンペの話が届けられるが、その締切は翌日。僅か1日半の製作期間でデッサンからファーストモデルまで、夜を徹して仕上げる事になったのは、若干27歳のジョルジェット・ジウジアーロだった。直接、フィアットの社長だったヴィットリオ・ヴァレッタの元に完成品を持ち込むと、そのモデルをたいそう気に入ったヴァレッタは、その日のうちにヌッチョにプロジェクトを進めるよう依頼し、ベルトーネが生産まで請け負う事となる。196537日ジュネーブショーで「フィアット850スパイダー」は発表されるが、この日、ジウジアーロには息子が誕生するという記念すべきことが重なる一日となった。ベルトーネ時代のジウジアーロによるプロトタイプ「シボレー・テスチュード」のイメージをもつ「850スパイダー」のフロント部分。そのポイントとなるのはキャレロ社製ヘッドライトで、この「850スパイダーシリーズ1」に採用されるヘッドライトが、滑らかで魅力的なサイドラインを生み出し、ジウジアーロ自身も最も気に入った部分と語っている。後にこのヘッドライトとテールライト、ドアを開ける為のプッシュ・ボタンは「ランボルギーニ・ミウラ」に流用される事となる。今回入荷した「フィアット850スパイダー」に搭載されるエンジンは、水冷直列4気筒OHVで、ボア×ストローク65.0mm×63.5mmから843ccの排気量をもつ。ウェーバー製30DIC型キャブレターと9.3の圧縮比から、最高出力49馬力/6500rpmと最大トルク6.1kgm/3600rpmを発揮する。ベースモデルの「850ベルリーナ」が同排気量から最高出力34馬力だった事を考えれば、かなりのハイチューンが施されている。それは、見るからに抜けの良さそうな専用エキゾースト・マニホールドやキャブレター、高められた圧縮比によるものとなっている。組み合わされるトランスミッションは4MTとなる。足回りは、フロントはダブルウィッシュボーン式となり、リーフスプリングとスタビライザーを備える。リアはセミトレーリングアーム式でコイルスプリングとスタビライザーが備わる。ブレーキは、ベースモデルの「850ベルリーナ」から格上げされフロントにソリッド・ディスク式を装備、リアはドラム式となる。ホイールは0.5インチ広げられ、1インチ大径となる4.5J×13インチ・サイズに、5.20-13サイズのタイヤが組み合わされている。今回入荷した車両には155/80R13サイズのタイヤが装備されている。インテリアは、4シーター・モデルがベース車両となる為、2シーターとしては前後方向に余裕が感じられるキャビンとなる。細身の2スポークステアリングを通して見えるダッシュボードは、左右対称のデザインとされ、ドライバー正面には5つの大小メーターが備わり、メーター類は全て「Veglia」製となっている。ペダル類はボディ中央寄りにオフセットされていて、それに合わせるようにドライバーズ・シートもやや内向きに配置されている。オープン時にウェストラインがスッキリと見えるようにシート・バックは低めでヘッドレストは無いが、そのシート・バックを前方に倒す事で背後に備わるラゲッジ・スペースへのアクセスがしやすくなっている。燃料タンクはリアにある為、スペアタイヤが収まるフロントのラゲッジ・ルームと合わせてコンパクトな車両にもかかわらず、収納スペースは充分と言えるだろう。幌はキャビン背後の鋼板製トノーの下に綺麗に収まり、エンジンリッド用も兼ねるヒンジはスッキリとしたデザインが採用されている。全長×全幅×全高は3782mm×1498mm×1220mm、ホイールベース2027mm、トレッド前1170mm、後1222mm、車両重量735kgとなっている。「フィアット850スパイダー」は、生産最盛期となる1968年には、日産120台のペースでグルリアスコにあったベルトーネ本社工場の生産ラインで製造され、その90%がアメリカに向け輸出されたといわれている。「ベルリーナ」や「クーペ」モデルが1971年末で生産終了となる中で「850スパイダー」は、1973年まで生産され、累計生産台数は約13万台にもなった。メーカー公表性能値は、最高速度145km/hとなり、同時代のライバルともいえる「MGミジェット」や「オースチン・ヒーレー・スプライト」に匹敵する性能を発揮する。コンパクトだが、とても印象的なボディデザインをもつ「フィアット850スパイダー」は、比較的広いキャビンをもち、低めのドライビングポジションと低めのアイポイントをもつ。ドライバーズシートに腰を降ろし、小さめのクラッチを踏んでエンジンを始動すると、後ろからエンジンのサウンドが届く。軽めの操作系を操り、走り始めると4000rpmくらい迄はエキゾースト・ノートや振動はとてもジェントルに感じられる。そこから上の回転数になると、ベースモデルより高めのエンジンパワーが軽めのボディを押し出してくれるパワーを感じる事が出来る。同時代のライバルとなるイギリス製オープンスポーツと比べると軽快さが強調されるのはイタリアン・スポーツらしいところと言えるかもしれない。足回りは適度に柔らかく路面を捉え、ペースを上げなければリニアにステアリングに追従してくれるが、スピードが上昇してくると徐々に狙ったラインに載せられなくなる傾向が見え始める。しかし「850スパイダー」は、リア・エンジンにも関わらずリアがシビアには感じられない。それは開発陣が意図した事で、安定志向のハンドリングに躾けられているからに他ならない。「フィアット850スパイダー」を含む「フィアット850」シリーズは、歴史的傑作といわれる「フィアット600」の基本構造をキャリーオーバーしたダンテ・ジアコーザによる設計となっている。「フィアット600」がリア・エンジンによる不可避的な弱点としていた高速域でのスタビリティ問題を「850」では、ホイールベースを3cm延長することと、ボディ形状の変更によるエアロダイナミクスの向上で改善したモデルとなる。その結果ベースとなる「850ベルリーナ」でもスポーティネスに富んだキビキビとしたドライビングが楽しめ、累計生産台数220万台にも達した。その性格を受け継いだ「850スパイダー」は、多くの人々に歓迎され、優れた性能と低燃費、印象的なボディデザインで高く評価されたモデルでもある。「フィアット850スパイダー」は、発表から60年近く経過した現在でもフィアットの長い歴史の中で、最も愛された魅力的なモデルとなり、個性たっぷりの自動車として今やコレクターズ・アイテムの一台となっているモデルでもある。