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3000MkⅢ
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メーカー
ミッション
マニュアル
グレード
3000MkⅢ
ボディタイプ
外装色
ブリティッシュレーシンググリーン
年式
1966 年型
走行距離
22.650マイル
乗車定員
2 名
サイズ
長 400 cm 幅 152 cm 高 119 cm
エンジン形式
排気量
2912 cc
馬力
150
トルク
25.5
車検
ハンドル
駆動区分
輸入区分
中古並行輸入
内装色
ブラック
燃料区分
ガソリン
幌色
ブラック

長い歴史を誇るロンドン・モーターショーは、過去にも多くの新型車の誕生を見守ってきた。4年前の1948年にも同じ会場で「ジャガーXK120」がセンセーショナルなデビューを果たした。その会場で、天井から「HEALEY」の看板の下がったスタンドに展示された、ブルーメタリックの車両の前にくると立ち止まる人が増えはじめ、柱の陰の目立たないスペースであるにも関わらず、人垣ができてしまった。製作者のドナルド・ヒーレーは展示された車両のフロント部分のデザインが気に入らず、目立たないようにその鼻先を壁に向け展示していたといわれている。その有様を人垣の後ろでじっと見ている真丸のロイドメガネをかけた長身の老紳士が、オースチン・モーターカンパニーの社長、サー・レオナード・ロードだった。人垣をかきわけクルマに近づくと、対照的に短身なドナルド・ヒーレーとしばし話し込んだ後、固く握手を交わす。ふたりでシートに収まり、多くのフラッシュ・ライトを浴びた。このショーに於いて「ヒーレー100」に称賛を浴びせた1人となったレオナード・ロードは、その晩ディナーにドナルド・ヒーレーを招待し、BMC最大のファクトリーであるロングブリッジ工場で、このクルマの生産を行う契約を交わした。そこで車名は「オースチン・ヒーレー100」となった。新進メーカーの「ヒーレー」にとって、オースチンの大資本と強力な販売網というバックアップを得て、後にビックヒーレーへと発展しながら20年近くにわたり北米を中心に販売されることになる。19535月からロングブリッジ工場で生産される「オースチン・ヒーレー100(BN1)」は、英国で税込価格£1181で販売され、£770の「MG TD」と£1576の「ジャガーXK120」のちょうど中間というリーズナブルな車両価格に抑えた事により、発売と同時に爆発的な人気を獲得。このクラスのスポーツカーの世界的なベストセラーとなり、最初の210ヶ月で1万台を越え、中でも北米における人気の高さは特筆すべきものとなった。3年間で10688台を生産した「オースチン・ヒーレー100(BN1)」は、19558月から「BN2」に進化して生産されるとともに、ダブルトーンボディとエンジンフードのルーバーが特徴的なスポーツバージョンともよべる「オースチン・ヒーレー100M」、更にアルミボディのレーシングモデル「オースチンヒーレー100S」が加わりバリエーションに広がりをみせていく。生産開始以来「BN1」「BN2」合わせて15千台近くが生産されヒット作となった「ヒーレー100」は「オースチンA90」のエンジンが6気筒化されると、1956年半ばに「100-6(BN4)」に進化を遂げる。この「BN4」に先立ち6気筒ヒーレーの先行プロトタイプとして少数製作された「BN3」は、ホイールベースを2290mmとした4気筒搭載モデルのシャーシを流用しながら6気筒エンジンを載せていた。しかし量産モデルでは、ホイールベースは50mm延長され、荷物用スペースともいえる+2シートを装備し、ボディ全長は170mmも延ばされ4000mmに達した。現在では4気筒モデルも併せてビック・ヒーレーとよばれることが多いが、これは「ヒーレー・スプライト」に対してつけられたニックネームであり、厳密には「スプライト」と生産時期がオーバーラップする6気筒エンジン搭載モデルを指して呼ぶことが正しいとされている。19579月以降の「BN4」には大径キャブレターと新型シリンダーヘッドが与えられ117馬力を発揮するエンジンにより、111mph(178.6km/h)の最高速度と0400m加速18.1秒のパフォーマンスを得る。また、美しいリア・スタイルをもつ2シーターモデル「BN6」も追加発表されている。「BN5」の型式No.はプロトタイプにあてられ、当初シングル・キャブレター化とオーバードライブ装置無しで、廉価モデルを目指したこのモデルは、1957年のミッレミリアに参戦するワークスレーシングカーにモディファイされ、オープン・ツーリングカー・クラスでのクラスウィンを獲得する。19596月「オースチンA90」のエンジンが3化されたのに伴い、搭載エンジンが3・直6エンジンに変更された「ヒーレー3000」がデビューする。発表当初から2シーターの「BN7」と2+2の「BT7」が用意され、124馬力を発揮するエンジンと、前輪にディスクブレーキが装備された。フリーウェイ時代が到来し、更なるパワーを求めた北米市場に対して、19614月になると3基のSUHS4キャブレターを装備した「ヒーレー3000Mk-」が用意され「BN7/2」「BT7/2」としてヒットを期待された。しかし、コストアップやキャブ調整などによる手間が嫌われ、早々に「BJ7」とよばれる三角窓付きで固定式フロントウィンドウを装備し、耐候性の高い幌を備え、SUツイン・キャブレターを装備したモデルに変更された。目まぐるしくモデルチェンジが続けられた「オースチン・ヒーレー」は19642月、更なる耐候性の向上や上級スポーツカーへの移行が図られた「ヒーレー3000Mk-(BJ8)」を発表、より明確な形で表現された豪華な雰囲気のインテリアへとモディファイが施されていた。正に究極のビックヒーレーとなるモデルであるが、僅か数ヶ月後にはリアアクスルに変更を受けた「フェイズ」モデルへと移行し、モデル名はそのままに19683月まで生産される事となる。今回入荷した「オースチン・ヒーレーMk-」に搭載されるエンジンは、鋳鉄ヘッドをもつ水冷直列6気筒OHVで、ボア×ストローク83.34mm×88.90mmから2912ccの排気量を得る。キャブレターは「BJ7」のSU HS6型ツイン・キャブレターから口径アップとなるSU HD8型ツイン・キャブレターとされ、バルブ及びエキゾースト・システムの改良が施されている。9.03の圧縮比から最高出力148馬力/5250rpm、最大トルク25.5kgm/3000rpmを発揮しシリーズ中、最強エンジンとなっている。組み合わされるトランスミッションは4MTとなり、オプションで3速、4速に作用するレイコック・ド・ノーマンヴィル製の電磁式オーバードライブの選択が可能となっている。足回りはフロント・ウィシュボーン+コイル+スタビライザー、リア・半楕円リーフによるリジット+スタビライザーとなる。ブレーキはサーボが標準装備され、フロントにディスク、リアにドラム式が採用される。ホイールは15インチ径のワイヤースポーク式が備わり、センタースピンナーで固定される。タイヤサイズは5.90-15サイズが組み合わされている。インテリアは「ヒーレー100」以来採用されてきた、特徴的な曲線が用いられたダッシュボードから豪華なウォルナット・パネルにタンブラースイッチが並ぶ、全く異なるデザインに変更された。この光景は「ヒーレーMk-」のみに与えられ、ドライバー正面の向かって左側には140mph迄のスピードメーターと、右側には7000rpm迄刻まれたタコメーターが装備される。メーター類はスミス製となり、センターコンソールにはロックが出来る小物入れも設置された。古典的な見栄えをもつスプリングスポークのステアリング・センター・ボタンの上には小型のウィンカーレバーが備わる。充分な広さを確保されたコックピットとなり、しっかりと腰をホールドしてくれるローバック型シートと、その後方には荷物スペース用の+2シートがレイアウトされている。「BJ7」以降、固定されたフロント・ウィンドウシールドと3角窓が備わるコンバーチブル・スタイルとなり、しっかりとしたつくりの幌を装備する為、耐候性、居住性は飛躍的に向上している。全長×全幅×全高は4000mm×1524mm×1250mm、ホイールベースは2329mm、トレッド前1238mm、後1269mm、車両重量1080kgとなっている。3・直6エンジン搭載の「ビック・ヒーレー」は42926台が生産され、その9割は北米に輸出された。そのうち「3000Mk-」の生産台数は17712台となっている。メーカー公表性能値は、0400m加速17.2秒、最高速度121mph(195km/h)となる。︎”ビック・ヒーレーは、チームカラーのレッドにホワイトのハードトップを組み合わせ、BMCワークスチームにより各地のラリーイベントに参戦。1958年のシーズンから「ミニ・クーパーS」が主役となる1965年頃まで華々しい結果を残している。中でも女性ドライバーでワークス・ヒーレーをドライブしたスターリング・モスの妹、パット・モスは、1958年のリエージュ〜ローマ〜リエージュに於いて総合4(GTクラス優勝)1962年にはレディース・タイトルも獲得、後にラリー・ドライバー、エリック・カールソンの夫人となる。1964年にはウェーバー40DCOEキャブレターを3連装し200馬力を発揮する、ワークス「ヒーレーMk-」が実戦投入されると、チューリップ・ラリー、スパ〜ソフィア〜リエージュで優勝、RACラリーではティモ・マキネンが2位を獲得している。翌1965年、レギュレーションの変更により活動は制限されてしまうが、それでもチューリップ、ジュネーブ、アルパインの各ラリーでクラス優勝を獲得、RACラリーでは「ミニ・クーパー」とのデッド・ヒートを制し総合優勝を獲得した。「ヒーレー100」登場時から継承されたボディデザインは、極めて短いフロントオーバーハングをもちヘッドライトから大きな曲率でドア後部まで伸びる緩やかなラインを描き、リアタイヤの上でもう一度跳ね上がったラインがボディ後端で滑らかに落ちてゆくボディは、同じ英国の「ジャガーXK」や「ACエース」などにも通じる見事なデザインとなる。6気筒エンジン搭載モデルからは、フラットだったエンジンフード上に大型化されたラジエーターをクリアする為のパワーバルジが載り、シンプルな扇形のグリルは楕円形の立体的な造形に移行した。ボディパネル各部にメッキのアクセントをもつオープンボディは、英国を代表するスポーツカーならではの佇まいを見せている。全長4m以下、車幅も1.6mを下回る「ヒーレーMk」のボディは「マツダ・ロードスター」とほぼ同等のコンパクトな外寸をもつオープン・スポーツとなっている。そのコンパクトなボディにベースが乗用車用とはいえ3・直6エンジンを搭載するのだから、その性格はトルクフルで骨太なフィールを感じさせるものとなっている。同じ時代のドイツやイタリアのライバル車達は、トレンドとなりつつあったエンジン回転数でパワーを引き出す様なバルブ・レイアウトや、4輪独立によるしなやかなサスペンション技術を取り入れ初めていた。それらの新技術には敢えて背を向け、純粋にドナルドとジェフリーのヒーレー父子らベテラン・コンストラクターの豊かな経験と英国の古典的手法により入念に作り込まれたスポーツカーとなっている。その姿勢は、かつて世界を制覇したローマ帝国に戦いを挑み、自らの文化を頑なに守った英国人の祖先、ケルト人の生き方とも見ることが出来る。強固なフレームによるスタビリティの高さや、重厚でいて痛快なハンドリング、充分信頼のおけるブレーキ性能、そして豪快なトルクを感じさせながらもスムーズなエンジン。これらは多くのスポーツカー好きに支持された、古典的ブリティッシュ・スポーツの美点を見事に兼ね備えた、誰もの記憶に残る華やかなスポーツカー黄金期を感じさせるものとなり、長きにわたって生産されてきた「オースチン・ヒーレー」の完成形ともいえるものとなっている。