サイズ
長 448.0 cm 幅 197.0 cm 高 113.0 cm
フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリは、90歳と178日でこの世を去った。1988年2月、エンツォの90歳の誕生日は公的な儀式としてでは無く、フェラーリで働く従業員1700名が自由に参加出来るかたちで、ともに食事の時間を和やかに過ごし、エンツォ自身が製造を指示した「F40」のモデルカーと銀のメダルが配られる中、ケーキと乾杯用のスパークリングワインで締めくくられた。数週間後、体調を崩し6月にローマ法王(ヨハネ・パウロ二世)の来訪を受けるものの、8月14日の朝7時に息を引き取った。その死からひと月を経ず、9月には例年のごとくF1イタリアGPが第12戦としてモンツァサーキットで開催された。この年、開幕から11連勝を挙げ無敵ともいえるマクラーレン・ホンダに乗るアイルトン・セナとアラン・プロストは、全16戦を勝利しそうな勢いでティフォシで埋め尽くされたモンツァでも圧倒的な速さを見せつけていた。レースが始まると中盤でプロストが珍しくエンジンブローによりリタイアとなる。セナはフェラーリ2台をかなりリードしていたにも関わらず、周回遅れのウィリアムズに接触し残り4週という所でリタイア。ティフォシ達の大歓声の中、フェラーリのゲルハルト・ベルガーが優勝、僚友のミケーレ・アルボレートが2位に入り奇跡のワンツーフィニッシュとなったが、このイタリアGP以外、全てマクラーレン・ホンダが勝利する歴史的なシーズンとなった。この光景にモンツァで立ち会ったティフォシ達は、神がかり的な勝利を携え天国に続く階段をゆっくりと登るエンツォの後姿を瞼に焼き付けた事だろう…エンツォ亡き後のフェラーリは、フェラーリのゼネラルマネージャーも務めた事もあるピエロ・フザーロを社長とするが、1991年に社内抗争とF1での不振を理由に辞職することとなる。︎フィアット創業者の孫として、生を受け1963年フィアット社長に就任したジャンニ・アニエッリは、1969年にはフェラーリの株式50%を取得し、エンツォ・フェラーリが亡くなった日から、その割合を90%にするという取り決めを行っていた(エンツォ自身が保有していた10%の株式は、その息子ピエロ・フェラーリに譲渡されている)。ピエロ・フザーロが去り、エンツォの死後3年が経過した1991年11月、ジャンニ・アニエッリの肝入りで、かつてエンツォの下で70年代にフェラーリF1チームをチャンピオンチームに導き、1990年FIFAワールドカップ・イタリア大会の事務局長を務めたルカ・ディ・モンテゼーモロがフェラーリ社長に就任した。新社長を迎えたフェラーリは、1992年1月4日からのロサンゼルスショーで「512TR」のワールドプレミアを行った。「512TR」は、亡き創業主エンツォ自らが指示を出し、モンテゼーモロがチャンピオンに導いたF1・312Tに由来するエンジンを搭載した「ベルリネッタ・ボクサー」のパワートレインを継承した「テスタロッサ」を新たに作り替え、高度にリファインを施したエボリューションモデルといえる内容をもっていた。︎構成部品の約3割を新たに作り直した「512TR」は、フェラーリ伝統のクロモリ鋼管フレームをもち、ピニンファリーナ社でインテリアまで含め仕立てられるボディは、スティールとアルミで形作られ、マラネロの工場で1日2台のペースでアッセンブルされている。そのエクステリアは直線的なデザインだった「テスタロッサ」に対し、同時期の「348tb」の様な柔らかさが加えられている。このデザインは「F50」や「456GT」を手掛けたピニンファリーナ社のピエトロ・カマルデラによるものとされている。「512TR」という車名は「5L、12気筒エンジンのテスタロッサ」という意味をもつ。ヨーロッパでのショーデビューは2月のブラッセルショーとなる。「512TR」に搭載されるエンジンは「ベルリネッタ・ボクサー」から「テスタロッサ」へと受け継がれた、F113D型とよばれる180°V型12気筒DOHC48バルブとなり、ボア・ストローク、82×78mmで4942ccの排気量をもつ。このエンジンは主要部品が再設計され、シリンダーにはニッケルとシリコン合金を蒸着させたニカシル加工が施される。このシリンダーに組み込まれるマーレ製のアルミ鍛造ピストンとコンロッドは、厳密にバランス取りがされた上で熟練工の手で丁寧に組み付けられる。また圧縮比を10.0(従来は9.2)に高め、バルブ径を拡大し、プロファイルを改めたカムシャフトを採用、KEジェトロニックが使われていたエンジンマネージメント・システムは、ボッシュモトロニックM2.7にバージョンアップされている。これらの改良により、428馬力/6750rpmと50.1kgm/5500rpmのトルクを発揮する(テスタロッサは390馬力/6300rpm、50.0kgm/4500rpm)。しかも高出力エンジンながら、フラットなトルク特性を合わせ持ち、3000〜5500rpmで80%となる40kgmのトルクを発生して7000rpmを過ぎても43kgmを維持出来るフレキシブルさも特徴となっている。更にレスポンス、ドライバビリティともに一層磨きあげられ、スロットル・ペダルの開度に対してトルクのつきがとても良く感じられる様にセッティングが施されている。組み合わされる5速ギアボックスは「テスタロッサ」同様ディファレンシャルとともにエンジン下に搭載され、よりハイギアード化されたものとなる。シフトロッドにボールベアリングが挿入された事で、それまでのフェラーリとは全く異なるスムーズな操作が可能となっている。またエンジンのパワーアップに伴いクラッチ径は単板の10.5インチに拡大され、リア・デフにはロッキングファクター40%のLSDが組み込まれている。「テスタロッサ」ではメインとサブからならフレームを持っていたが「512TR」では大幅に変更され完全一体型フレームに進化している。従来サブフレーム上にパワートレインとサスペンション一式が組まれ、メインフレームにボルト止めされていたが「512TR」ではサブフレームを溶接し、更に斜めに補強パイプを加えたうえで、センターを貫通するオーバルパイプ(F40用並みの太さ)が採用されている。これにより剛性アップだけでなく、操縦安定性向上の為に30mmエンジン搭載位置を下げることで、重心を下げるという目的をも達成されている。製造工程でエンジンを下から入れていた従来の手法は使えなくなったが、ドライブシャフトの角度変化も少なくなり、捩り剛性12.5%、曲げ剛性25%も一挙に高めることに成功している。足回りは前後ダブルウィッシュボーン式となり、それまでのコニ製からアルミボディのガス入りビルシュタイン製が採用されている。更に部品点数を減らし、アルミ製のハブキャリアを使うことでバネ下重量の軽量化がはかられ、ハンドリングと乗り心地に大きな改良がもたらされた。2インチサイズアップされたホイールは、18インチのスピードライン製となりフロント8J、リア10.5Jとなる。タイヤサイズはフロント235/40ZR-18、リア295/35ZR-18のピレリPゼロが採用されるが、BS、ミシュラン、グッドイヤー 製も装着される様になった。ブレーキは前後ともディスクが大径化されフロント315mm×32mm、リア310mm×28mmのドリルドベンチレーテッドディスクが装備され、キャリパーはATE製アルミ4ポッドキャリパーが前後に付く。耐フェード性は高く、テストドライバーが全速でフィオラノテストコースを10周してもフェードしない、というテストを軽くパスしているという。また200→0km/hの制動距離はテスタロッサから25mも少ない225mとなる。インテリアはメーターパネル、ステアリング、センターコンソール、シートなどのデザインが「テスタロッサ」から大幅に変更され、ヘッドクリアランスを稼ぐ為に、シート高を13mm下げている。「テスタロッサ」では古典的で肉薄なイメージとなるバケットシートだったが「512TR」では厚くモダンなスポーツシートに変更され、クッション性も良く快適なドライビング環境にリニューアルされている。インテリアは「512TR」の新しさと時代のながれを実感できる部分といえるかもしれない。全長×全幅×全高は4480mm×1976mm×1135mm、ホイールベースは2550mm、トレッドは前1532mm、後1644mmとなり、車両重量1473kgは「テスタロッサ」から40kg軽量化された。燃料タンク容量は100ℓ、最小回転半径は6.3mとなっている。新車時価格は2750万円で「512TR」の生産台数は3年間で2261台となる。︎メーカー公表性能値は0→100km/h4.8秒、0→400m加速12.8秒、0→1km加速22.9秒、最高速度313.8km/hとなり、カーグラフィック誌による実測値は0→100km/h5.3秒、0→400m加速13.0秒、0→1km加速23.3秒、最高速度293.4km/hであった。「512TR」は、エンジン回転数の低いところからトルクがあり「テスタロッサ」より一層運転し易く、乗り心地も引き締まってフラットに姿勢を保って走行出来る。フェラーリのドライバビリティの改善はこの頃から徐々に進み、それはモンテゼーモロ新社長の考えによる改革ともいえるもので、この後更に加速することとなる。「テスタロッサ」に比べ、ボディの剛性感は高く、緻密に造られた機械に乗っているという感覚が強く感じられ、走りの質感がより高く保たれている。フェラーリとしてはギアシフトがとてもスムーズで「テスタロッサ」よりコーナーを曲がりやすく安定感も高い。ブレーキも強力な減速Gを立ち上げる事が可能となり、強い制動を安心してかけられる。それだけ高いパフォーマンスを発揮しながらも「512TR」の神髄は、滑らかでスムーズなエンジンの味わいといえるだろう。回転上昇に伴い、ハイギアードな12気筒ならではの際限の無い加速の伸びを楽みながら、演奏者が次々に増えていくオーケストラを右足で指揮する様に、ミュージックと呼ぶに相応しいエンジンサウンドの洪水を味わえる。それはクルマ好きとしての至福の時間と感じられ、まさしく桃源郷と思える瞬間だ。「512TR」から「F512M」へのモデルチェンジにより、マウロ・フォルギエーリ技師のF1・312シリーズと同じ「ベルリネッタ・ボクサー」からそれまで続いてきた12気筒ミッドシップの流れは終焉を迎える。1996年になると新たにFRのフラッグシップとして65°V12気筒搭載の「550マラネロ」が登場し新時代を迎える。あわせてモンテゼーモロが社長に就任してからフェラーリF1チームも1999年にコンストラクターズチャンピオンを獲得し、ここからシューマッハのドライビングによる、新たな黄金期を築く事となる。それでもミッドシップのフェラーリ12気筒モデルは、伝統のチューブラーフレーム構造をもち少量生産でレーシングカー直系となる、創業主エンツォ・フェラーリの時代を充分に感じる事が出来る存在となっている。特に「512TR」以降のモデルはより高い完成度とドライバビリティの向上が図られ、電子デバイス登場以前のモデルとなる為、純粋にフェラーリ12気筒を存分に味わえる貴重な存在になっているといえるだろう…