サイズ
長 383.0 cm 幅 152.0 cm 高 114.0 cm
︎「オースチンヒーレー100」は、1952年10月のロンドン・モーターショーで「ヒーレー100」としてショーデビューを果たす。それは第一次世界大戦時にイギリス軍パイロットとして戦争に関わって、戦傷により戦後ラリードライバーやエンジニアに転身したドナルド・ヒーレー自身が「ドナルド・ヒーレー・モーターカンパニー」を1945年に設立し、そこで製作されたモデルとなっている。息子のジョフレー・ヒーレー、バリー・ビルビー(シャーシ担当)、ゲリー・コーカー(ボディ担当)とともに様々なアイディアを持ち寄って作り上げたモデルが「ヒーレー100」となる。流れるようなボディの下には、オースチンA90ウェストミンスターから流用された2.6ℓエンジンとギアボックスが収められ、発表に先立つ1952年の夏には、ベルギーで走行テストを行い、車名の「100」に相応しく100マイルを超える106.05mph(170.6km/h)の最高速度を記録している。「ヒーレー100」を開発するにあたり、ヒーレー親子は当時最大のスポーツカー・マーケットを自らの目で見るために北米に渡っている。ニューヨークをてはじめに、デトロイト、シカゴ、テキサスからエル・パソを経由してロスアンジェルス…安価で高性能な2シーター・スポーツカーの需要を確信し、新しいスポーツカーの開発に取り組んだ結果が「ヒーレー100」に活かされている。それは既存のオースチンA90のエンジンを搭載することからも伺うことが出来る。新型シャーシは75mm×75mmのボックスセクションのサイドメンバーが全長にわたる、極めて強靭なラダータイプとなり、このフレームは更に一体型のスカットルの構造物とフロアパンにより強化される。ウィッシュボーン+コイルをフロントに、リジットアクスル+リーフによるリアのサスペンションの構造もオースチン用から流用していた。オープン2シーターのボディは、グリルこそ伝統的なマスクを扇形に低く押し潰した形状となるが、低めのボンネットと高いフェンダーのイタリアン・スタイルをもち、当時関係のあったイタリアのカロッツェリア・ピニンファリーナの監修を想像させる。特徴的なフロントウィンドウシールドは、曲面ガラスなので「MG」の様に前方へ倒す事は出来ず、特殊なヒンジにより全体を前に出し、水平から30°ほどに低く傾けられる様になっていた。プロトタイプのボディ製作は、後にデイビッド・ブラウンに買収されるティックフォード社に依頼し製作された。長い歴史を誇るロンドン・モーターショーは、過去にも多くの新型車の誕生を見守ってきた。4年前の1948年にも同じ会場で「ジャガーXK120」がセンセーショナルなデビューを果たした。その会場で、天井から「HEALEY」の看板の下がったスタンドに展示された、ブルーメタリックの車両の前にくると立ち止まる人が増えはじめ、柱の陰の目立たないスペースであるにも関わらず、人垣ができてしまった。その有様を人垣の後ろでじっと見ている真丸のロイドメガネをかけた長身の老紳士が、オースチン・モーターカンパニーの社長、サー・レオナード・ロードだった。人垣をかきわけクルマに近づくと、対照的に短身なドナルド・ヒーレーとしばし話し込んだ後、固く握手を交わす。ふたりでシートに収まり、多くのフラッシュ・ライトを浴びた。このショーに於いて「ヒーレー100」に称賛を浴びせた1人となったレオナード・ロードは、その晩ディナーにドナルド・ヒーレーを招待し、BMC最大のファクトリーであるロングブリッジ工場で、このクルマの生産を行う契約を交わした。そこで車名は「オースチンヒーレー100」となった。新進メーカーの「ヒーレー」にとってオースチンの大資本と強力な販売網というバックアップを得て、後にビックヒーレーへと発展しながら20年近くにわたり北米を中心に販売されることになる。1953年5月からロングブリッジ工場で生産される「オースチンヒーレー100(BN1)」は、英国で税込価格£1181で販売され、£770の「MG TD」と£1576の「ジャガーXK120」のちょうど中間というリーズナブルな価格に抑えた事により、発売と同時に爆発的な人気を獲得。このクラスのスポーツカーの世界的なベストセラーとなり、最初の2年10ヶ月で1万台を越え、特に北米おける人気の高さは特筆すべきものとなった。3年間で10688台を生産した「オースチンヒーレー100(BN1)」は、1955年8月から「BN2」に進化して生産されるとともに、ダブルトーンボディとエンジンフードのルーバーが特徴的なスポーツバージョンともよべる「オースチンヒーレー100M」、更にアルミボディのレーシングモデル「オースチンヒーレー100S」が加わりバリエーションに広がりをみせていく。「今回入荷したオースチンヒーレー100/4 BN2」に搭載されるエンジンはボア×ストロークが87.3mm×111.1mmで総排気量2660ccとなる水冷OHV直列4気筒エンジンとなる。7.5の圧縮比をもち、SU H4ツインキャブレターを備え、90馬力/4000rpm、19.9kgm/2000rpmのトルクを発揮し「BN1」と共通のスペックをもつ。組み合わされるトランスミッションは、フルシンクロ付き3段マニュアルギアボックスに、レイコック・ド・ノーマンヴィル製のオーバードライブ(2速とトップとなる3速に効く)が装備されていた「BN1」に対して、オーバードライブ付きの、新しい4段フルシンクロ付きギアボックスが装備されている。これにともないファイナルドライブもスパイラルベベル・タイプからハイポイド・タイプに改められた。足回りはフロントがウィッシュボーン+コイルによる独立懸架とされ「BN1」に対し改良されたものとなる。リアは半楕円リーフ+パナールロッドのリジットアクスルとなる。ブレーキは「BN1」に比べ大型のドラムブレーキが4輪に装備されている。ホイールはダンロップ 製15インチのワイヤーホイールを装備、今回入荷した車両には165/80R15サイズのタイヤがくみあわされている。︎コックピットはボディ同色のスチールのままのダッシュパネルをもち、特徴的な曲線が何とも言えず良い時代の味わいを醸し出すデザインとなっている。クラシカルなメーターはステアリングコラムを中心に左右対称にレイアウトされ、左が120mphまでのスピードメーター、右が6000rpmまで刻まれたレブカウンターとなっている。中心付近にウィンカーレバーを備える、細身で大径なレザー巻きステアリングが付き、長めのシフトレバーは前方から伸びている。シートは腰のホールドがとても良さそうなローバックタイプとなり、オープン時のボディラインを損なわないように配慮されたものとなっている。「オースチンヒーレー100/4 BN2」のボディサイズは全長×全幅×全高が3880mm×1540mm×1240mmとなり、ホイールベースは2290mmとなる。トレッドは前1240mm、後1290mmで車両重量は980kgとなっている。「オースチンヒーレー100/4 BN2」の生産台数は3924台となっている。「オースチンヒーレー100」の動力性能はメーカー公表値で、最高速度105mph(168.98km/h)、0→400m加速17.5秒となっている。同時期の「トライアンフTR2 2.0ℓ」が165.0km/h、18.6秒を公表し、これを上回り「ジャガーXK120 3.4ℓ」の199.5km/h、17.0秒にはやや及ばずといったところか。また1953年にイギリスの「The Motor」誌による「BN1」を使用した実測テストでは最高速度106mph(171km/h)、0→60mph(97km/h)加速11.2秒を記録、消費燃費テストでは約8km/ℓという結果を残している。1953年「ドナルド・ヒーレー・モーターカンパニー」はワークス体制で2台の「オースチンヒーレー100」をル・マン24時間レースに出場させた。結果は総合12位(クラス2位)と14位(クラス3位)を獲得。それに合わせる形で、110馬力を発揮する高性能モデル「100M」が開発され、640台限定で製作された。100Mの「M」はル・マン(Le
Mans)のMを意味する。強化されたサスペンションと、口径の大きなキャブレター、革製ボンネットベルトと排熱用ルーバー付ボンネットが装備された。今回入荷した車両はこのモデルと同様のルーバー付きボンネット及び革製ボンネットベルトが装備されている。当時「ドナルド・ヒーレー・モーターカンパニー」からは「ル・マン・エンジン・モディフィケーション・キット」と呼ばれるチューニングキットが販売され、ノーマルの「ヒーレー100」を「100M」と同じパワーにする事が出来たといわれている。また「オースチンヒーレー100」は、1953年末にアメリカ・ユタ州のボンネヴィルに於いて速度記録に挑戦。5〜3000マイル、1〜24時間のナショナル(アメリカ)レコードを樹立、24時間平均速度は167km/hとなり、7.45km/ℓという高燃費で走ったとされている。速度記録に挑戦するにあたり、ドナルド・ヒーレー自身がドライバーとして参加する場面も珍しく無かったといわれている。1958年に「オースチンヒーレー・スプライト」が誕生してからは「ビック・ヒーレー」と呼ばれるようになった「ヒーレー100」だが、全長4m以下、車幅も1.6mを下回るボディは「マツダ・ロードスター」や「トヨタMR-S」とほぼ同等のコンパクトな外寸をもつオープン・スポーツとなる。そのコンパクトなボディに乗用車用とはいえ3ℓ級のエンジンを搭載するのだから、その性格はトルクフルで骨太なフィールである事が容易に想像出来る。1956年からは直6エンジンが搭載されグリルが大型化されるとともにボンネットにパワーバルジが載せられ、2インチ伸ばされるホイールベースと合わせて、初期モデルのクリーンなボディラインに変化が現れる。極めて短いフロントオーバーハングをもちヘッドライトからおおきな曲率でドア後部まで伸びる緩やかなラインをもち、リアタイヤの上でもう一度跳ね上がったラインがボディ後端で滑らかに落ちてゆくそのボディは初期モデルこそ美しく、同じ英国の「ジャガーXK」や「ACエース」などにも通じる見事なデザインとなる。低めのドアノブを引いてドライバーズシートに腰を下ろすと、低い目線からフロントに伸びる長いボンネットラインが視界に入りリアタイヤに近い位置に着座するスタイルは、ヴィンテージ期のブリティッシュ・スポーツの定番といえるもの。エンジンをスタートさせると強めのビート感が感じられるが、生まれがサルーン用エンジンとなるため、芳醇な低速トルクとフレキシブルな性格に助けられ、軽量なボディを走らせる事を存分に楽しめる。電磁式オーバードライブのスイッチを入れると、瞬時にギアはアップしエンジン回転は下がる。しかし逆に解除すると若干のタイムラグの後回転が上昇し、常にダウンがワンテンポ遅れる感じとなるが、ワインディングにおいての操縦性は、その流麗なスタイルから想像するより、ずっと敏捷に感じられると思う。ツインキャブレターの恩恵でスロットルレスポンスが良い為、なおさら軽快に感じられるのかもしれない。足回りは適度にしなやかでロールを許すものの、スムーズな路面ではコーナリングを心から楽しむことが出来る。カムアンドペグ方式によるステアリングは、想像以上に軽くセンター付近に曖昧な感触を残すものの、切り出してしまえば年代の割には正確にレスポンスしてくれるので、ノーズを思い通りの方向に向けることが出来る。合わせて不粋な突き上げ感も少なく、この年代のスポーツカーとしては優れた乗り心地を提供してくれると言って差し支えないだろう。