フェラーリDINO246GT
TYPE L クラシケ取得済
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︎エンツォ・フェラーリと妻ラウラの間に1932年1月19日に誕生した長男は「アルフレード」と名付けられた。この名前はフェラーリ家の伝統に従い、長男はみんな「アルフレード」を名乗り、エンツォの父や兄も同じく「アルフレード」だった。新たに誕生した「アルフレード」は、”小さなアルフレード“を意味する”アルフレディーノ“が転じて、親しい人々は彼を「ディーノ」の愛称で呼んだ。1920年にアルファロメオのテストドライバーとなったエンツォは、22歳でレーシングドライバーに昇格する。その頃、トリノのポルタ・ヌオーバ駅近くで、ブロンドの髪に射る様なダークブラウンの瞳、利発そうでコケティシュな笑顔をもつ、ラウラ・ドメニカ・ガレッロに出会う。エンツォはレースとセールスの為に、ミラノとトリノを行き来しながら、ラウラに良く手紙を書きやがて同棲生活を始める。小規模なアルファロメオのレーシング・チームではあったが、エンツォは優秀なメカニックだったジョルジオ・リミニの信頼を得て、以前在籍していたCMNチームの恩師ウーゴ・シボッチをアルファロメオに移籍させる。1923年ラヴェンナ郊外のサヴィオ・サーキットのレースに出場したエンツォは、25周、359kmをトップで走り切ると、その息子フランチェスコがイタリアの誇る英雄パイロットだったエンリコ・バラッカ伯爵と出会う。フランチェスコ・バラッカは、第一次世界大戦中に34機ものドイツ軍機を撃ち落とした撃墜王で、エンツォは彼が機体に描いていた跳ね馬のマークをバラッカ伯爵から授けられた。エンツォはこの黒い跳ね馬の下地にモデナ市のカラーであるイエローを用い「カヴァリーノ・ランパンテ」のエンブレムとする。また、この年の8月28日に2年の同棲期間を経て、トリノ市内のカソリック教会に於いてエンツォはラウラと結婚式を挙げる。エンツォのレーシングドライバーとしての実力は、飛躍的に伸びる事は無かったが、説得力ある個性と高い交渉力によりチームを運営していく手腕は価値あるものとなり、フィアットの優れた若手エンジニアだったヴィットリオ・ヤーノの引き抜きにも成功する。アスカリやカンパーリなど名手のドライブによりアルファロメオは勝利を重ねていく事となる。1929年にアルファロメオのセミワークスチームとして「スクーデリア・フェラーリ」をモデナに立ち上げたエンツォは、翌年1930年にはイタリアの国民的英雄でスター・ドライバーの一人でもある38歳のタツィオ・ヌヴォラーリをチームに迎える。この頃、エンツォはレーシングドライバーとチーム運営を両立していたが、自身の体調不良とアルフレードの誕生を期にレーシングドライバー引退を決意する。「スクーデリア・フェラーリ」は、アルファロメオとの関係も良く、スポンサーも集まり充実した時期で、1930年代後半へ向かい再び大きな戦争の影が忍び寄る中、レーシングチームとしての黄金期を迎える。「ディーノ」の愛称で呼ばれるアルフレードは、濃い睫毛は父親譲りで、かすかに下に曲がった鼻は母親似の、生まれた時から病弱な子供だった。表向きは息子の為に時間を割く事の無いエンツォだったが、ことのほかディーノを気遣い可愛がっていた。幼い頃のディーノは、体調の良い時は近所の同年代の子供達と外で遊び、それほど目立つ成績は残さなかったが、誰もがエンツォの息子であることを知る小さなモデナの街で育った。1938年にアルファロメオは、レース活動を専門とする「アルファコルセ」を創設し、エンツォは「スクーデリア・フェラーリ」を一度解消してそこのレーシング・マネージャーに就任する。しかし上司のウィルフレード・リカルトと上手く関係が築けず、翌年「アルファコルセ」を後にする。アルファロメオを去る時の同意書により、4年間「スクーデリア・フェラーリ」という名称を使えなくなったエンツォは「アウト・アビオ・コストゥルツィオーニ(自動車、航空機の製造を意味する)」という名称の会社を設立し、加工用の機械の製作をこなしながら、ミッレミリア用の8気筒エンジンを搭載したレーシングモデル「ティーポ815」を作製する。この「ティーポ815」は「フェラーリ」の名称こそ付けられていなかったが、こんにちまで続くフェラーリによる第一号車となる。1940年に前年から始まった第二次世界大戦にイタリアも参戦すると、その後の約6年間はレースとはかけ離れた世界がヨーロッパに繰り広げられた。エンツォは40代に入り徴兵を免れながらも戦争は自身のレーシング・ビジネスを中断させるものとしか考えずに、それでも個人的にドイツで開発された高精度な油圧式の研削盤の製造を開始すると、それにより儲けを出そうとしていた。イタリア政府から疎開の命令を受けたエンツォはモデナ市内から16km離れたマラネロに工場を移し、この土地は既に夫婦としては気持ちが離れ法律的な意味しか持たない妻、ラウラの名義としていた。女性を尊重せずに道具の様に考えていたエンツォと、妻ラウラとの間には大きな溝が出来ていたが、会社の経理を担当し共同経営者に名前を連ねるラウラを無視することは出来なかった。終戦を迎えた頃、46歳を迎えたエンツォは工場の再建にあたり、新工場をモデナ時代の約4倍の規模に拡張すると、新たなるエンジンの構想を温めながら自身の名前を冠したレーシングマシンの製作を志すが、12歳になったアルフレードは命に関わる病気にかかっているのが判明する。戦時中からランチアで仕事をしていた54歳のヴィットリオ・ヤーノは「アウレリア」のV型6気筒エンジンの設計にかかりきりになっていた為、エンツォは自身で構想していたV型12気筒エンジンの設計をヤーノの流儀を継承するジョアッキーノ・コロンボに依頼する。この1気筒あたり125ccとなる1.5ℓの60°V型12気筒SOHCエンジンは、後のフェラーリ各車に連綿と継承される数々のディテールを備え、スムーズな回転と例えようのない素晴らしいサウンドを備えていた。当面のエンツォの目標は「打倒アルファロメオ」であったが、戦後のレースに復帰した「アルファロメオ158」は、無敵の強さを発揮していた。エンツォが自身の目標に向かい着実に歩みを進めるなか、アルフレードは病をかかえながら人見知りはするが、優しい心をもった穏やかな性格の青年に成長し、レーシングドライバーよりエンジニアを目指していた。体調を観ながらモデナのコルニ工科学校に通い、たまに工場に顔を出すとひとりで作業を見ている事もあった。エンツォは、疑うことなくアルフレードを自身の跡取りだと考えていたが、時には持ち前の癇癪をぶつけることもあったといわれている。アルフレードは、ボローニャ大学の経済学部に進学するが体力の衰えにより通学が困難になり一年間の在籍に留まる。幼い頃からクルマに強い関心をもっていたアルフレードはエンツォから「フィアット1100」を与えられ、1957年から採用される新たな「F2」のレギュレーション用にV型6気筒エンジンの提案をした頃には、2ℓエンジンのフェラーリも走らせたという。ラウラはつきっきりで看病をし、エンツォは忙しい仕事の合間をぬって見舞いに通う。エンツォはアルフレードの健康を取り戻せると信じ、自身を欺きながら食品のカロリー表を作成したり、病状を観察する為のグラフに記録をすることを忘れなかった。フェラーリのもとに戻ったヴィットリオ・ヤーノは、エンジニア達とディスカッションを繰り返しながら、機械的な効率を理由にアルフレードが提案したV型6気筒エンジンの開発を進めていた。しかしアルフレードの病状は回復すること無く、提案したエンジンの完成も見れずに1956年6月30日に24歳で夭逝、エンツォは58歳の時だった。白血病、多発性硬化症、肝炎、筋ジストロフィー等様々な病名が囁かれたが正式な発表は無い。ディーノを失ったエンツォの悲しみは深く癒される事も無くレースからの撤退も噂された。アルフレードが亡くなった後、フェラーリで作製されるV型6気筒エンジンと、それを搭載したレーシングモデル、ロードモデルには「ディーノ」の名称が与えられた。そのエンブレムにも使われる「Dino」の書体は、アルフレード自身により書かれた書体を元にしている。幼少の頃よりディーノと面識のあったヴィットリオ・ヤーノは、ディーノの構想を元にV6エンジン開発に尽力した。ディーノ亡き後、完成した2.4ℓ・V型6気筒エンジンは、最強のFR時代のフォーミュラー用エンジンとして「ディーノ246F1」に搭載され、1958年にはマイク・ホーソーンに英国人初のワールドタイトルをもたらした。その後も、フェラーリ初のミッドシップ・フォーミュラー「156F1」に搭載されるとフィル・ヒルと共に再び世界チャンピオンを獲得する。一方、黎明期のミッドシップ・レーシングスポーツ「196SP」や「286SP」、フォルギエーリ時代以降に造られた「166」や「206SP」などにも搭載されたディーノ・ユニットは、歴史にその名を刻んだエンジンとなる。しかし60年代後半、ディーノ・ユニットに転機が訪れる。1966年、FIAは「連続する12ヶ月間に500基以上の生産」を要求する新たなホモロゲーションを発表する。フェラーリはフィアットと提携して2ℓの「ディーノV6ユニット」をフィアットの工場で量産するというプロジェクトでこれに対応してみせた。併せてフェラーリは、このエンジンを搭載する、スポーツモデルの開発を決定して、コンパクトなエンジンのサイズを活かしフェラーリ初のミッドシップ・ロードモデル「ディーノ206GT」を発表する。「ディーノ206GT」に搭載されるV6エンジンは、レーシングモデルの「206SP」に搭載されるタイプ227L型エンジンと同じボア×ストローク、86.0mm×57.0mmにより、同じ1986ccの排気量と構造をもつ65°V型6気筒のティーポ135B型となっている。「206SP」用のエンジンでは、10.4の圧縮比とルーカス製燃料噴射装置が組み合わされ220馬力/9000rpmを発揮していたが、ロードモデルの「206GT」へ搭載するにあたり、圧縮比は9.7に落とされ、燃料噴射装置は3基のウェーバー40DCNF/1キャブレターに換装、最高出力180馬力/8000rpmとしロードユースへの対応が図られた。ボディ中心に搭載されるエンジンは「206SP」ではオーソドックスな縦置きとされたが「ディーノ206GT」では横置きとする事でキャビンスペースと短いホイールベースを実現している。ボディデザインはカロッツェリア・ピニンファリーナに、ボディ製作はスカリエッティに任されアルミ製とされた。このデザインは「206SP」がもつダイナミックな曲線を活かして1965年パリサロンで発表された「ディーノ・ベルリネッタ・スペチアーレ」を起源としている。当時ピニンファリーナのチーフ・デザイナーになったばかりのアルド・ブロヴァローネの手掛けたこのスタディモデルをベースに、後の70年代から80年代にかけての代表的なフェラーリロードモデルを手掛けた、若き日のレオナルド・フィオラバンティが3年の歳月をかけ、3度の手直しを行いようやく発表まで漕ぎつけた。1968年11月のトリノショーでプレ生産モデルがお披露目された「ディーノ206GT」は、プロトタイプを含めて153台が生産され、同じエンジンを搭載する「フィアット・ディーノ・クーペ/スパイダー」と合わせて無事にFIAのホモロゲーション取得を果たした。12気筒エンジンをFR方式で搭載するロードモデルを中心にデリバリーしていたフェラーリとしては、初のミッドシップのロードモデルは、プロトタイプ的な意味合いも含む事から「ディーノ」のエンブレムを付けて販売されたともいわれている。しかしそこには夭逝してしまった息子の名前を残したいというエンツォの思いも観てとれる。「ディーノ206GT」は類い稀なるボディデザインの美しさと、素晴らしいハンドリング性能からフェラーリの傑作とよばれる一台となる。1969年からフィアット傘下となったフェラーリは、フィアットの要求する生産性の向上と耐久性アップを考慮し「ディーノ」のボディをスチール製に変更しエンジンを2.4ℓ化することで、本格的なプロダクションモデルへと進化させた。排気量アップを施されたエンジンは、市販車として無理の無いトルク特性を得るとともに「ポルシェ911」にも対抗できる性能を獲得し「206GT」の美しいボディデザインを継承しながら「ディーノ246GT」として生まれかわり1969年ジュネーブショーでお披露目される。「206GT」と同じ鋼管フレームのスペシャリスト、ウィリアム・ヴァカーリによるクロモリ鋼管フレームを用いながらホイールベースを60mm延長し、全高を20mmプラスした事で、卓越したハンドリングとGTモデルとしてより完成度を高めたモデルとなっている。「ディーノ246GT」に搭載されるエンジンは、フェラーリ製V型12気筒エンジンの設計にも携わったアウレリオ・ランプレディにより再設計され、ティーポ135CS型とよばれる65°V型6気筒DOHC12バルブエンジンとなる。ボア×ストローク、92.5mm×60mmから2418ccの排気量を得る。ダウンドラフトのツインチョークウェバー40DCNF/7型キャブレターを3基備え、9.0の圧縮比から最高出力195馬力/7600rpm、最大トルク23.0kgm/5500rpmを発揮する。アルミブロック製だった「206GT」用の135B型エンジンから、鋳鉄ブロック化されたこのエンジンは、乾燥重量134kgとなり僅か4kgの重量増にとどまる。組み合わされるトランスミッションは自社製の5速MTとなり、ロッキングファクター40%の機械式LSDが装備されている。 足回りは前後とも、ダブルウィッシュボーン式となり、KONI製ショックアブソーバーとコイルスプリングを装備しスタビライザーを備える。ブレーキは4輪ともにベンチレーテッドディスクを装備し、ガーリング製ブレーキキャリパーが組み合わされている。ホイールは、前後ともに「Dino」のロゴの入ったクロモドラ製センターロック式の6.5J×14インチサイズの軽合金ホイールを装備し、205/70VR14サイズのミシュランXWXが装着される。︎ インテリアは、車高の低いミッドシップ方式によりリアにエンジンを搭載したモデルとしては、湾曲したリアウィンドウにより斜め後方を含め開けた視界が確保されている事から窮屈な感じは無い。今回入荷した車両は、L、M、Eと生産された時期により3種に分けられる「246GT」のバリエーションの中で、最初期のモデル、タイプLとなっている。このタイプLは「206GT」と共通部分を多く持ち、MoMo製の3スポークの38cm径ウッドステアリングもそのひとつ(今回入荷した車両はLシリーズ後期モデルとなる為、37cm径レザー巻きステアリングが装備される。Mシリーズ以降では36cm径レザー巻きステアリングが装備され、メーカーは全てMoMo製となる)で、ゲートの切られたギアレバーの右脇に空調レバーが備わる点も共通となっている。ダッシュボード右側下一面がグローブボックスになるのも、タイプLと「206GT」のみのデザインとなり、タイプM、Eではダッシュボード中央部に空調レバーが移設される為、助手席手前のグローブボックスの蓋は小型化されてしまう。ステアリングを通して見えるメータークラスターには、レタリングの美しいVeglia製メーターが大小8個並ぶ。やや上向きとなるステアリングホイールの角度は「フェラーリ」ならではとなり、見た目よりしっかりと身体をホールドしてくれるシートが備わり、中央にオフセットされたペダル類は近く、ステアリングがやや遠くなる古典的なイタリアンスタイルのドライビングポジションとなる。裏面がシルバーのルームミラーや、シートのヘッドレスト部分がリアバルクヘッドに取り付けられているのも「206GT」と共通で、加えてエクステリアに於いては3本爪のスピンナーが付くセンターロック式ホイール、交差式ワイパー、三角窓のフレーム部は共通デザインなっている。またタイプLでは、ドア、トランクのキーホールの位置も「206GT」と共通となりドア、ボンネット、エンジンフード、トランクリッドなどの開口部はアルミ製となる。スチール製のボディ部分も金型プレスによるものでは無くスカリエッティによるハンドメイド製となる為、どこか「206GT」に近い緩やかな丸みを感じさせるボディラインを持つ。「206GT」では露出していたフィラーキャップは「246GT」ではボディ同色のフラップ内に収納され、エンジンフード上に開けられた通気孔は6個から7個に増やされる。前後バンパーは太く厚いタイプに変更され、プロテクトラバーも厚いものが「246GT」用として採用されている。︎ 「ディーノ246GT」の全長×全幅×全高は4235mm×1700mm×1135mm、ホイールベースは2340mm、トレッド前1425mm、後1430mm、車両重量1080kg(乾燥重量となり実質1200kgといわれている)となる。燃料タンク容量は70ℓで、新車時ディーラー価格900万円(1973年・西武自動車)となっている。「ディーノ246GT」はタイプL、M、E合わせて2487台が生産される中で、タイプLは最も少ない生産台数357台となり、その上、今回入荷した車両は希少なボディカラー「Bianco Polo Park」となっている。この車両が取得している「フェラーリ・クラシケ」とは、歴史的、資産的に価値のあるフェラーリ各車を生産してきたフェラーリ自らが、それを証明する生産証明書を発行する事業で、2006年に始まったもの。生産から20年以上経過したモデルや限定モデルが対象となり、生産当時の設計図や資料に基づきオリジナルを保っている車両に対して有償で認定書を発行するシステムとなっている。認証されると認定書として赤いブックレットとバッジが与えられる。貴重な文化遺産でもあるフェラーリの保護と維持に役立てているとともに、スペアパーツの再生産や管理に有効なものとなっている。︎「ディーノ246GT」のメーカー公表性能値は0→400m加速15.4秒、最高速度235km/h。カーグラフィック誌による実測データは、海外契約レポーターでモータージャーナリストのポール・フレールによる海外でのテストデータが掲載され、0→100km/h加速7.1秒、0→400m加速14.8秒、0→1000m加速27.0秒、最高速度233km/hとなっている。︎自動車の歴史の中で「ディーノ」は、最も美しいスポーツモデルの1台といえる。コンパクトなサイズの中に、これほど伸びやかで躍動感あふれるデザインにまとめあげたフィオラバンティと、そのベースを造ったブロヴァローネの才能溢れる魅力的なボディは、色褪せる事の無い美しさを見せる。低く蹲ったボディのウェストラインに沿った位置にある、小さなメッキ製のドアノブを引いてドアを開き、低いシートに腰を下ろしてみる。黒いインテリアカラーの影響も受けてスポーツモデルらしい囲まれ感はあるが、全方向に視界は開け、フロントウィンドウの向こうには盛り上がったフェンダーのラインが見え車両感覚は掴みやすい。ペダル類は中央寄りにあり、少し上向きのステアリングと、そこから右手を下ろした位置に丸いシフトノブが存在する。どう調整してもペダルが近くステアリングは遠くなるので妥協しながらベターなドライビングポジションに慣れるしかない。キーを捻りエンジンを始動させると、12気筒モデルよりやや低音の存在感のあるサウンドを聴かせてくれる。クラッチを踏んで、ギアレバーを左の列の手前に引いて1速を選び、クラッチをリリースすると、呆気なくスムーズに動き出す。2.4ℓ・V6エンジンは低回転でもトルクがありフレキシブルな性格となる。しばらくゆっくりと走りながら、水温計、油温計をみながら暖気をし、徐々に回転数を上げてみる。ギアボックスは比較的ローギアードな設定により、各ギアとも2000rpmからでも丁寧にスロットルを踏み込めば加速を受け付けてくれる。エンジン音は背後からやや大きめなボリュームで室内に透過してくるが、タウンスピードでの乗り心地を含めて、低速から高速まで快適なものとなっている。これは乗員が重心付近に座っているというポジショニングのせいでもあるが、スピードを増すにつれより良くなる傾向を示す。5段ギアボックスはフェラーリの常で画然たるゲートを備えている為、チェンジレバーの動きは大きくなり素早いチェンジには慣れを要する。加速では同時代の2.2ℓの「ポルシェ911S」と対等に渡り合い、レスポンシブなエンジンが4000rpmから上にいくにしたがい、マフラーとエンジンのサウンドがシンクロし始めると、一段と高い音色に変化しながらミュージックと呼ぶに相応しいサウンドを奏でる。ここからレブカウンターの白い針がレッドゾーンまで跳ね上がる間の加速は、とても気持ち良くエンジンの躍動感が味わえる。ワインディングロードでは、現代のスポーツモデルに比べると、柔らかな足回りをストロークさせながらタイヤの性能を使うセッティングによりロールは大きめとなる。ステアリング・ホイールに添えた手を僅かに動かすだけでノーズは反応を示し、そのまま保舵力が重くなる事は無く、思い通りにコーナーをクリアしていける軽快感は、他のフェラーリロードモデルではなかなか得られないものとなる。「ディーノ」は基本設計が良い事と軽めの車重により、2速あるいは3速でフルパワーをかけてコーナーリングしても、前後タイヤは絶妙にバランスし純粋にニュートラルステアを示す。絶対的な速度は現代のスポーツモデルに比べて低くても、適切なタイミングをみながらシフトレバーとペダル類を手と足の操作で完璧に連携させながら走らせるのは、以外と難しい事にも気づかされる。これが上手く決まる程「ディーノ」も気持ち良く走る様に感じられ、この連携が上達する程にクルマとの対話が弾む感覚が生まれる。12気筒を搭載するフェラーリ・ロードモデルは、何処かそのハイパワーを誇る荘厳なエンジンそのものが主役となり、崇高で尊大、頑固なエンツォを思わせるのに対して「ディーノ」のドライブ感覚は、在りし日のアルフレードの柔和で繊細な人物像を反映させている様にも感じられる。こうして創り上げられた「ディーノ」のブランディングにはエンツォの父としての深い優しさや強い愛情が見え隠れしている様にも見える。アルフレードは確実に存在しその存在があったからこそ、これ程迄に素晴らしいデザインとサウンドをもち、充実した操縦感覚を味わえるスポーツモデルが残されている。スポーツカーに必要なのは絶対的な性能とエンジンパワーだけでは無く、そこに込められた創り出した人々の様々な思いと、走らせるドライバーのそのクルマに対する気持ちも重要なファクターとなるのかもしれない…