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北米日産 26周年限定モデル
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メーカー
ミッション
マニュアル
グレード
北米日産 26周年限定モデル
ボディタイプ
外装色
イエロー
年式
1970 年型
走行距離
1050km
乗車定員
2 名
サイズ
長 413 cm 幅 162 cm 高 127 cm
エンジン形式
排気量
2393 cc
馬力
155
トルク
車検
令和6年2月
ハンドル
駆動区分
輸入区分
中古並行輸入
内装色
ブラック
燃料区分
ガソリン
幌色

日産「フェアレディ」の歴史は古く、そして最新の「フェアレディZ」に引き継がれ、日本のスポーツカーとしては長く作り続けられた数少ないクルマとなっている。その起源となるのは「ダットサンスポーツDC-3」となり850cc4気筒エンジンを搭載した、イギリスの「MG」のような4人乗りオープンモデル。1952年に誕生し、翌年に生産中止となるまで50台が生産された。大卒初任給が8000円前後の時代に835千円の車両価格は、いかにも高額なものであった。続く「ダットサンスポーツ」はFRP製オープンボディをもつOHV988ccエンジン搭載のモデルで、僅か20台の生産のみとなる。そして19601月「フェアレディ1200」が発表される。当時、日産の社長だった川又克ニがアメリカ・ブロードウェイで、同名のミュージカルを観覧し、感銘を受けた事から命名されたモデル。SPL212型とよばれる、このモデルは213型となる北米専売モデルをもっていた。エンジンは、当時の「ブルーバード」にも用いられたOHV1189ccE型となり、43馬力/8.4kgmを発揮し132km/hの最高速度をもっていた。このモデルで勢いをつけて196110月の東京モーターショーで「ダットサン・フェアレディ1500(SP310)」が発表される。「ダットサン・ブルーバード310」のシャーシと前後独立懸架となった足回りをもち、この頃、注目を集め始めたモータースポーツにも参戦した。中でも1964年「第1回日本グランプリ」ではB2クラス(1300cc2500cc)優勝を果たし「スポーツカー・フェアレディ」のイメージを確立した。19655月には、ひと月前に発表されたアルブレヒト・ゲルツ(当時BMWなどを手がけたドイツ人デザイナー)による初代「シルビア」と同じ1600ccに排気量アップされた「フェアレディ1600(SP311)」が発表され、19673月には追加モデルとして「フェアレディ2000(SR311)」が発表となった。この「フェアレディ2000」に搭載されるSOHC4気筒の1982cc エンジンは、ソレックス型ツインキャブレターを備え、145馬力/18kgmを発揮して、5MTを搭載し0400m加速15.4秒と最高速度205km/hを誇り、国産初の200km/hオーバーカーとなった。1967年「第4回日本グランプリ」ではGTクラス13位を独占し、翌年1月の「モンテカルロラリー」に出場、ハンヌ・ミッコラのドライブで総合9位、クラス3位を獲得する。これ程までに日本のスポーツカー界を牽引してきた「フェアレディ」は、1969年のモデルチェンジを期に初代米国日産社長であった片山豊により、新しいスポーツカー開発を熱望される事になる。片山は日産自動車開発部門に「勝利を祈願する」Z旗を送り、このエピソードにちなんで車名は「フェアレディZ(S30)」とされる、魅力的なクーペボディをもつモデルが誕生する。「ジャガーEタイプの様なクルマを造って欲しい」という片山の願いに対し、松尾良彦率いる日産自動車デザインスタジオは、松尾案となるフロントマスクと吉田章夫案のファストバックスタイルをベースに、田村久米雄が修正を加え完成させたのが「フェアレディZ」だといわれている。軽量な鋼板モノコックボディをもち四輪独立懸架を備え、北米を中心に大ヒットし日産のイメージリーダーカーとして約10年間で世界総販売台数55万代(日本国内は8万台)を達成。当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立し、日産の海外進出の活路を拓いた、記念碑的モデルになるとともに現在はクラッシックカーとして世界的な知名度をもつクルマとなっている。「フェアレディ240Z」に搭載されるエンジンは、L24型とよばれる鋳鉄ブロックでカウンターフローとなるSOHC6気筒となる。ボア・ストロークは83mm×73.7mmとなり2393ccの排気量をもつ。46mmSU型キャブレター2基を備え、8.8の圧縮比から150馬力/5600rpm20.5kgm/4400rpmのトルクを発揮する。L24型のボア・ストロークは「ブルーバード」などに用いられるL164気筒と共通となり、ピストン、バルブまわりで共用されるパーツも多い。シンプルな設計により、信頼性が高く整備性にも優れたエンジンとなっている。今回入荷した「240Z」はエンジンのカムカバーに「240 OHC」と入った初期モデルのみに存在した「E31型ヘッド(普通の240ZE88)」が使用された圧縮比9.0をもつ貴重なモデルとなる。組み合わされるトランスミッションも4速となりリアデフのファイナルは3.364(普通の240Z5MT3.900のファイナルをもつ)となり、4速トップで約100km/h2500rpmで走行出来るようになっている。足回りは前後ストラット型となり、フロントはマクファーソンストラット式、リアも基本的には同じストラット式ながら、横剛性を得る為ピストンロッド径をひと回り太くして、トランスバース・リンクで位置決めをしている。ブレーキはフロントに222mm径ソリッドディスクを、リアに228mm径のドラム式を装備、サーボを備える。タイヤサイズは175HR14となり、5J×14サイズのホイールと組み合わされる。インテリアは初期モデルの特徴となる、ステアリングのスポークに穴の開いていないタイプが装備される。ステアリングコラムから伸びる、左側レバーはワイパーとヘッドランプ用、右側レバーはヘッドランプのディマーとターンシグナル用となり、当時としては進歩的な装備となり「フェアレディZ」の先進性を感じられるものとなっている。細身で大径のステアリングホイールの先には、左に大径の240km/h迄のスピードメーターと、右に8000rpm迄のタコメーターが備わる。ダッシュボードセンターには左から水温/油温、アンメーター/燃料、のコンビと時計による「フェアレディZ」伝統の3連メーターが並ぶ。シートはヘッドレストまで一体型となるセミバケットタイプとなり大柄でかけ心地の良いもの。センターコンソールにはシフトレバー手前に記念プレートが備わり、その手前はチョークレバーとハンドスロットルが装備される。ABCペダルの配置は適切なものとなり、フットレストも装備される。国際ラリーで活躍した「240Z」の戦績は、1970RACラリーに4台が参戦し、ラウノ・アルトーネンがドライブした車が総合7位を獲得。1971年モンテカルロラリーで、アルトーネンが総合5位。同年サファリラリーでエドガー・ヘルマンがドライブした車が総合優勝、シェカー・メッタの車が総合2位となった。1972年モンテカルロラリーではアルトーネンがドライブした車が総合3位。サファリラリーでは、ヘルマンの車が5位、アルトーネンが6位となり、それぞれ高い走破性と耐久性を証明したものといえるだろう。全長×全幅×全高は4115mm×1630mm×1285mm、ホイールベース2305mm、トレッド前1355mm、後1345mm、燃料タンク容量60、車両重量985kgとなる。新車時価格は、2エンジンのベーシックなモデルで93万円、装備の充実したZ-L108万円、240ZG150万円、Z432185万円となっている。「フェアレディ240Z」のメーカー公表性能値は0400m加速15.9秒、最高速度205km/h。カーグラフィック誌による実測データは「240ZG」によるもので0100km/h加速8.75秒、0400m加速15.5秒、01000m加速29.55秒、最高速度192.52km/hとなっている。「フェアレディZ」のフォルムは誕生から50年以上経た、現在見ても美しさを感じられるものとなる。当時の日本には無かったロングノーズ・ショートデッキ、ファストバックスタイルは全く色褪せては見えない。全高1.3mをきる低めのボディでも乗降性に優れ、そのコンパクトな外観から想像する以上に、2名分の室内空間には余裕が感じられる。また、こうでなければ北米であれだけ販売台数を伸ばせなかったかもしれない。黒で統一されたインテリアは、この時代のGTカーらしくシンプルで、その装備は扱いやすいものとなっている。開口部の大きなリアハッチはガススプリングのダンパーで支える方式となるが、チーフデザイナーの松尾良彦のアイディアだったとされている。また今回入荷したモデルには、当時「スカイラインGT-R」と同型のS20型エンジンを搭載した「Z432」に標準で備わり「240Z」ではオプションとされた、縦型デュアルマフラーが付く。L24型エンジンの低速トルクは充分で、フレキシビリティに富んだものとなり、短めのギアレバーで1速に入れ、クラッチをリリースするとあっけなく走り出す事が出来る。これはエンジン特性にもよるが、車重の軽さも効いている。ノンパワーのステアリングはパーキングスピードでは重さを実感するが、走り出してしまえば慣れが解決してくれる。フロントがソリッドディスクで、リアがドラムとなるブレーキも、不安を感じる事無くしっかりと機能してくれる。流麗なスタイリングと質実剛健なメカをもつ「フェアレディZ」の海外でのインパクトは、それまで安価なスポーツカーの市場を独占していた英国製スポーツカーを衰退させる程となった。それと入れ替わりに海外に進出し始めた日本車のイメージを確立する一助となった。「フェアレディZ」の開発を要請した初代米国日産社長の片山豊は「Zカーの父」と呼ばれ、その功績を認められ日米両国で自動車殿堂入りを果たしている。これ程までにエポックメイキングな国際スポーツカーが存在しただろうか。フェラーリやポルシェを語るクルマ好きの心の奥に、幼い日に見た近所に停められていた「フェアレディZ」への憧れがきっと残っているのではないだろうか。最新型の「フェアレディZ(RZ34)」が登場した今でも、初代「フェアレディZ」が色褪せる事は全く無く、その輝きはより強く感じられるように思える。